新・最後のアジト




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新・最後のアジトact.14 「ドラキュラのマントに100円で買える額縁を」

カオルは「写真の飾れない写真立て」を製造しライブ会場・路上などで押し売りをして生計を立ている。
でも「値段交渉」などが猛烈にヘタクソでどう考えても「原価割れ・技術料なし」になってしまう場合が多い。
でもまあ「制作作業がとっても楽しい」のでまあ許す。HPなどで「サンプル」を載せてあるはず(?)だし
ライブ会場には陳列しているので吟味して欲しい。まだ未定だがそれを「委託販売」してくるお店もあるような。

しかしなぜカオルは「写真立て造り」に情熱を傾けるようになったのだろう。
昨年秋も深まるころ「精神的にグッチャングチャ」になり「過去に関するほとんどのもの」を半透明のゴミ袋に
分別せずに13袋も捨ててしまった。
「こんな過去の日記いらん。服もこんなのどうせ着ない。写真なんぞ全部いらん。
 これは燃えるゴミか?写真てリサイクルできんのか?この本もCDもいらん。
 想い出グッズもプリクラ帳もいらん。おりゃ〜」と。
そんで数ヶ月してひょんな所から「前の子分ネコトロ君とゆっけちゃんの写真」と
「楽屋で威張ってる橋本じゅん・カオル・湊雅史の写真」を発見した。ふむ。部屋に飾ろう。でも写真立てがない。
段ボールで制作しよう。「まあまあ」のが出来たが満足しない。よし。とりあえず100円ショップに行こう。
「上記の凶悪ロックバカ」が「サンリオ系の写真立て」に入ってたら笑えるベ。
そんで100円ショップに行った。物色した。フレームをいくつか選んだ。すげー楽しい。
なんだか知らんがすげー楽しい。いつの間にか「部品」を選んでいて興奮気味に小走りで帰宅したのを覚えている。
夢中で接着したり切ったり貼ったり。そんなかんじで始った。

カオルは「フレーム」が好きだ。「枠」が好きだ。カオルの絵などにはほとんど「フレーム」がある。
その「限定された空間」というのがよいのだ。写真・映画などその「枠」には入らない「物語」や
現実的な「監督・大道具さん」を想像するのが好きだ。とのかくその「枠の中で完結」しているのがよい。
また「写真の飾れない写真立て」というのは「役立たず」である。「コーヒーを注げないコーヒーカップ」
「唄を忘れたカナリア」「ニオイがしない香水」などがあるのかどうかは知らないが
その「役立たずな感じ」が「カオルと似ている気がする」で気に入っているのだ。

名監督黒沢明さんは「フレームに写らないもの」に気を配っていたらしい。
正確な資料がないのでカオルの「思い込み」かもしれない。でもカオルの記憶によると
「絶対にフレームに入らない場所でもちゃんとセットを組む」らしい。
例えばある部屋でラブシーンなどがあるとしたら通常はベッドを中心に男女のアップ・引きの映像で小道具などを
写すのであろう。しかし黒沢さんは「玄関・トイレ・隣の部屋」なんかもセットを組んだらしい。
「役者さんのムードを高めるため」らしい。

10年ほど前(?)アメリカはハリウッドのアカデミー賞衣装部門で「日本人の女性」が受賞した。
彼女の名前は覚えていない。年輩だがチャーミングな人だった気がする。その受賞作も覚えていない。
「ドラキュラ」だっけな?たぶん「18〜19世紀の欧米のお城・貴族関係」だったはず。
彼女の制作した衣装はどれも素晴らしいのだが実は「裏地・素材」にこだわっていたそうなのだ。
「外見だけ立派にするのは簡単。裏地なんて見えないし最近ではいろんな素材があるからそれでもよい。
だけど役者さんにはその『重量』を感じて欲しい。『しっくり来ない裏地・古いニオイの羊毛・
見えないところの刺繍・当時の粗悪な材料での動きにくさ』を感じて欲しい」。
たしかこんなことをインタビューで答えていた。
「マントがひるがえるにもペラッペラじゃなあ。要するに監督も衣装さんも「オレたちここまで真剣だぜ。
役者さんもそれを踏まえて演じるべし・モチベーションを上げるべし」と考えていたのではないかと。

窓の外は晴れている。窓というのも限定された空間だ。これを書いているPC画面も同じ。
カオルは「フレーム好き」だけどたまに「枠からはみ出たい」時がある。それは「ライブ」だったりするのである。

おしまい。
   
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