まっしぐら




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「電圧は思い込みが激しい」の巻 

最終間際の電車に乗った。誰もがひどく疲れた顔をしている。
まるで希望に満ちあふれている人はこの電車に乗ってはいけないという法律でもあるみたいだ。
久しぶりの雨が降っている。傘の先から滴った水が床にアラビア文字のような模様を描く。
それは何か宝のありかを記した暗号にも見えるが
オレ様はアラビア語が出来ないので解読はあきらめた。
さっきまで数本の電車をやり過ごしながら偶然会った顔見知りと
駅のベンチでわだかまっていた。どちらかと言えば苦手なタイプ。
愚痴と自慢話の中間辺りの不毛な話題。接点が見付からなかったので
静かに顔見知りの饒舌を聞いていた。ベルトコンベアーのフリをして
適当に相槌を打ちながら。いつの間にか忍び込んだ靴の中の小石が気になる。
飲みに行こうと誘われる前にわざと大袈裟に時計を見ながら帰るキッカケを作った。
右手だけでバイバイ。ふう。小石を捨てようとして座席に腰掛けてすぐに靴を脱いだ。
でもそれは石じゃなかった。三軒目の飲み屋でつまんでいたピスタチオの殻だった。

こんな疲労したムードは持ち帰りたくなかったので楽しい事を考えた。
「電圧」の事だ。オレ様には愛すべき友人がいる。パソコンとその電気的改造に
異常な興味を示す彼のことをオレ様は「電圧」と呼んでいる。
ハッカーになることが電圧の夢。IBMに侵入してやるぜと豪語しているが
侵入してから何をするのかは未定らしい。
電圧は「ボクはコンピューター関係の仕事をしている」と言っているが
実際にはさくらやの店員である。電圧はアナログ時計が苦手だ。
3:00や6:00などは大丈夫だが1:05とか7:39のように
短針と長針が微妙に重なる場所では簡単にパニックに陥る。
以前その素晴らしい欠点を指摘した事があるが
「21世紀にはアナログ時計なんて消滅する。」と電圧は言い切った。
先見の明がないオレ様にはローレックスがデジタルになるとは思えないのだが。
電圧は思い込みが激しい。
例えばキリスト教徒の事を我々は「クリスチャン」と呼ぶが
電圧は「クリスちゃん」という名前の白人だと思っているらしい。
優しくその間違いを指摘すると「だって日本の子供はみんな太郎じゃん。」と
前頭葉がしびれるようなコメントをくれた。電圧はデカダンスの事を「奇妙な踊り」と
信じて疑わない。半分は当たっているがやはり違う。
たぶんダンスがキーワードなのだろう。ある日電圧は言った。
「日本の政治家ってなんか変だよね。」初めて意見が一致したとな思った。
二秒後にこう言った。「どうして多数決で決めないんだろうね。」ふぇっ.....???? 
電圧よ。深い。深すぎる。キミの暮らす深海まで素潜りで行けるほど
オレ様はタフじゃないのだ。電圧の海で溺れる寸前に駅に着いた。
気分はかなり良くなったけどまだ雨は降っている。いっぺんに願いはかなわない。
ライターを探しながら階段を下りる。見慣れた町並み。タクシーを待つ行列。
誘蛾灯のようなコンビニの光。水しぶきをあげて車が通りすぎる。
小さなヤツでいいからヘッドライトのあたりに虹が見えたらいいのにと思った。
   
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