その他/「鬱病についてのカオル私的な意見」 その1

 
 
その1
 
その2
 
 

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「鬱病についてのカオル私的な意見」 その2

オレは「アルコールと安定剤と睡眠薬の併用」で幻覚幻聴に悩まされた。
気がついた時は精神病院にいた。
医者に言われた。
「キミはいまはビビってるから酒は飲まないだろう。
 でも3週間ぐらいしたら強烈な鬱状態になる。
 そしてそれがつらいからまた酒に逃げたくなる。
 どんなヤクザモンでも威勢のいいヤツでも
 その鬱の苦しさから酒やクスリに手を出してまた病院にくるんだ。
 さて。キミは乗り越えられるかな?」
 
オレはダメだった。
それどころか「数ヶ月の断酒のリバウンド」で酒量が増えた。
「ビールとかワインならいいんじゃないか」と「正当化」した。
でもアルコールはアルコールだ。酔わない酒なんかないし
酔わなかったら飲んでも意味がない。
小銭を持って酒の自動販売機の前を行ったり来たり。
結局買ってしまいひとくち飲んで「すごく後悔して鬱状態」になる。
それが嫌でまた「酔って忘れるために」また飲む。
アル中の「黄金パターン」だ。
 
そんな状態だからライブハウスに行っても仕事ができない。
上司に「お願いと脅迫」のような助言をされた。
そんなアル中末期と鬱状態の中で「ジェネレーションズ」は完成した。
 
オレはライブハウスをやめて
酒をやめて「もう一度ライトを浴びる側になろう」と決意した。
ジェネレーションズをCDにしたくていろんなヒトに相談した。
当時の渋谷westの田村ブッキングマネージャーと
頭を丸めるのはできないから「酒をやめる」を条件に「応援団」を
結成してもらった。
何度も内蔵がやられたり医者に脅かされても
やめられなかった酒がキッパリその日からやめている。
2002年の5月1日だ。
 
さて。
これでオレは「過信」をするコトになり2度目の鬱が2年後に。
オレは。
酒をやめて店をやめて「ジェネレーションズ」を唄えば
「デビュー100万枚」とかはムリだとしても「ひとりぶん」ぐらいなら
稼げるのではないかと思い込んでいた。
酒さえやめれば「すべては好転するはずだ」と。
 
それから2年間ライブを中心に活動を開始した。
どんな場所でも「スケジュールが大丈夫」ならなんでもやった。
HPもつくった。ネットラジオもやった。
でも予想していたよりCDはぜんぜん売れない。客も増えない。
打席に立つたびに空振りばかりしている。
焦る。なぜ売れないのか?
作詞の仕事と専門学校の講師をしても毎月の家賃が苦しかった。
応援団もがんばってくれている。
味方も協力者も増えた。でも数字が出ない。
 
働いていたライブハウスともわけのわからないトラブルになり
オレは「無期限で入り禁止」というコトになった。
「オレはなにをしたらいいのか?
 オレはなにをしなければいいのか?」
まったくわからない状況の中で
2枚目のCD「誰もがハローと言える場所」で起死回生を狙った。
 
オレは本当に本当にヒドいオトコなのだけれど
「毎月の家賃が苦しい」というだけの理由で
8年近くいっしょに暮らしたガールフレンドとネコ6匹を放り出して
実家に戻って来た。
たくさん曲を書いた。
「安請け合いして苦しいことの方が多かった専門学校」を辞めた。
(いい出逢いもたくさんあったし当時の生徒ともいまだに付き合いはある。
 オレは毎回の授業を「全力投球」しかできなかった。
 他の講師にも「もっとゆるく手を抜いていいんですよ」と言われたが
 オレにはどうやったらそれができるのかわからなかった)
 
レコーディングは苦しかった。
顎関節症。帯状疱疹。インフルエンザ。貧血。過呼吸などに同時に襲われた。
スタジオで何度か倒れた。
でも発売日もそのためのワンマンライブもある。
なんのために実家に戻り専門学校を辞めたんだ?
やるしかないだろ。とがんばった。
がんばりすぎた。
 
レコーディングが終わってオレは「完全に抜け殻」になった。
当時の日記には毎日のように「死にたい。消えたい。無意味だ」と
乱雑な字で書かれている。
オレは誰にも逢いたくなかった。
すべてのコミュニケーションが苦痛だった。
そして「ワンマンライブ延期 活動休止」を宣言した。
 
精神科医で処方される睡眠薬をすこしずつ貯めて
2004年の6/9に100錠飲んだ。
死ぬというより「もう目を醒ましたくない」と想ったのだ。
 
気がついたら病院だった。
レコ発ライブの延期や自殺未遂で多くのヒトに迷惑をかけて
どんどん自己嫌悪になっていく。
でも酒はダメだ。「オトコの約束」は破れない。
「またやるかもしれない」と医者もクスリをしばらく出さなかった。
 
まったく金もないからヒサカタに日払いの穴堀のバイトをさせてもらった。
それは疲れたけれどものすごく達成感があった。
そして「ぜんぜん完治してない」のに
「CDを待ってくれているみんなに悪い」と9月に復帰宣言。
見切り発車。復帰は早すぎた。
バイトを数日やっただけで「ハイな状態」になった。
その「一時的に元気のいい状況(躁状態と言ってもいいかな)」で
オレは電話をしまくって
「もう大丈夫だから。なんでもやるから。
 迷惑かけて悪かったから借りを返すよ」と。
 
克服法。
「一喜一憂してはならない。
 状態が悪い時は『迷ったら飛ぶな』を肝に銘じろ。
 『ハイな状態で引き受けた仕事や約束』は
 たいてい『その日』が近づくとプレッシャーになる。
 絶対に『即答』をしてはならない。
 うつも依存症も急激によくならない」
  
レコ発ライブもやりネットラジオも復帰したけれど
上記のように「その日」が近づくと苦しくなる。
いつも「言い訳」を探していた。
いつも「神風 天変地異」を待っていた。
復帰宣言した「世間体」でオレは作り笑いをしていたけれど
ずっと2004年の秋から冬は苦しかった。
たくさんの精神科に行った。夜はわけのわからない涙を流した。
 
年末にワンマンをやることにした。
オレはその日のライブが終わったら打ち上げでトイレに行くフリをして
どこかのホテルに泊まり朝いちばんで「海外逃避」しようと決めていた。
毎日携帯電話から「もう2度と逢わないだろう」という番号を消していった。
12月には10件ぐらいの電話番号しか残っていなかった。
 
結局パスポートは「クリスマス休暇」などの誤差を考えていなかったので
「年内の取得不可能」になった。
オレは「渡航予定」に香港の九龍(クーロン。発音は「カオルン」)と
インドネシアの「カオラック」という場所を選んでいた。
しかし。
2004年の冬に「スマトラ地震」があった。カオラックは被害が大きかった。
すべての巡り合わせが「カオル海外逃避はダメだよ」になった。
 
付記。
オレは2002〜2004の間に「ギャンブル依存症」になった。
幸い「トントン」だった。麻雀とスロット。
オレは「借金やクレジット恐怖症」だから深入りせずにすんだ。
 
年が明けて2005年。
オレはなぜか「写真の飾れない写真立て作り」に夢中になった。
ほとんどのエネルギーをそれに充てた。
それは「いま思えば暴力的なエネルギー」だった。
自分でもよい作品もあったなあと想うが
その制作作業は「完全な依存」だった。
でもヒトに迷惑がかかるわけじゃない。
売れれば少しはカネになる。
社会的にも悪いことじゃない。
スロットなんかよりずっといいことだ。と。
 
オレは「急激な快復の快感」に酔った。
また「過信」をした。
そして「専門学校の復帰」を自分から頼んだ。
半年後に「途中退職」するなんてちらりとも考えなかった。
恋もして「その万能感」にも酔った。
躁状態でスピードを上げた。
 
結局「2002年の断酒とジェネレーションズの過信」を繰返すことになり
2007年の春の「活動休止宣言」に至る。
その辺の心境は「HP日記2007年4月 桜詩人」を参照)
 
再度克服法。
「うつは急によくならない。
 急激によくなったというのは『錯覚』と想っておいた方がいい。
 自分の『適正に合ったスピード』をゆっくり探すしかない」
 
いまオレは調子がいい。
だからスピードに注意している。
多少は「学習」した。
 
今回の「恥さらしな文章」は
「自分への戒め。再確認」のためである。
 
続く。
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